意識高くない系消費者の、「いいえ」の話
「やっぱり無農薬栽培とか、オーガニックのお野菜とかにこだわりがあるんですか?」
ポケットマルシェでのお買い物が日常化していると話したりすると必ず言われます。
いえ、こだわりません。
「食育のためですよね?」
なんてことも言われます。
いえ、己の「楽しい」と「おいしい」が最上位、食育のためにと思ったことなど、ただの一度もありません。
「食への意識が高い系」とか言われると、もうますますわからない。
そそそそんな属性の人がいるんですか、この国には。
「いいえ」の理由①
こんな調子だから、農法とか農薬とかへのこだわりなんかもあろうはずがなく、
「えっと、すべてに共通して、おいしいのがいいです」という、思考機能が胃袋についてるレベルで過ごす、産直ECのエブリディ。
なぜか。
この人素敵だなー、と思う生産者さんからのお買い物が大前提だから。
それが、こだわらない理由のひとつめ。
「自分が好きだなと思う、そのプロが必要と判断して、適切なタイミングで適切な量、適切な希釈率(このへんも既に怪しい)で使用するならいーんでないの」って程度。
母ちゃんのおにぎりを食べるのに、母ちゃんの手についてる雑菌を過剰に気にしないのに近い信頼。
「オーガニックとか農薬不使用とか無農薬とか、チョットワカリマセン」ということが、その農法にこだわる生産者さんに対して、とても失礼なことにあたる可能性も、感じることはありますとも。
特に「農」という手段を通じて成し遂げたい世界があって、そのために特定の農法を選択されているケースなんかだったら、「わからない、で済ませる消費者がいるからだめなんだ」ってなことの、ひとつやふたつ言われてもやむなし、それならば謹んで斬られましょう、と思うけど。
「いいえ」の理由②
「家族のために、どんな栽培方法のお野菜かとか、こだわったりもしないんですか?」
なんて食い下がられることもありますが、しません。
夫婦揃って浴びてるのかという量のお酒をいただきますもので。
これが理由の2つめ。
さすがに毎日ではなくなってきたけれど、肝臓が「あかーーーーん!!」と叫ぶ量のお酒を、それは楽しくいただく日もありますもの。
わたしたち夫婦のヘルシーライフという意味でいけば、テコ入れすべきはそこからに決まってる。
でも飲みます、今日も明日もきっと明後日も。
自分でできることすら、ちびっとも自制する気もないような、そんな薄い「健康への意識めいたもの」を、農作物にだけ向けようとは思わんのです。
では、酒浸りのポンコツ夫婦はおいといて、育ち盛りのかわいい息子への影響は一体どう考えているのか。
将来的に、自己管理なのか楽しみなのか、そんなもののひとつとして、彼が食や食品に対してそういう角度からこだわりをもつのであれば、好みも選択も判断も、彼の責任においてやればいい。
それだけのこと。それ以上は知らん。
食育も同じことで、わたしの熱中していること、生産過程を知ることや料理や食事、それに生産者さんという存在に彼が興味をもって、それが結果的に「食育をほどこされたこと」と同じような成果をもたらすならそれもまたよし。
そうでなくても、それもまたよし。
わたしは保護者ではあるけれど教育者ではないから、「教育しよう」としないほうがいいような気がして仕方ないのです。
自分が「出来のいい子ども」とは遥かなる距離のある子どもだったから、余計に。
家族の身体の屋台骨
月に2回、定期で届けていただくのが住田さんのお野菜で、我が家の家族の身体を支える屋台骨は、常に住田さん作なのであります。
だからこのブログをスタートして「〇〇さんの【食材名】」とやろうとしたときに、本当はもっと早いタイミングで想起していました、「住田さんのお野菜」。
思い付きはしたのに、それを今までしていなかったのは、
「住田さんか、ちょっと難しいなぁ」と思っていたから。
なにが難しいのか。
「有機JAS認定」を取得している農家さんだから。
そうなれば、その農法であることを大切な要素としているように受け取られる可能性はつきまとう。
だけどわたし自身の実態は、先述のとおりの意識の低迷ぶりであり、ゆえにわたしが住田さんを好きな理由は「住田さんがオーガニック栽培と呼ばれる栽培方法の選択をしていること」と、多分ほとんど関係がないんですもの。
そんなわけで、住田さんのお野菜への愛を語るには、自分がどれほど意識最底辺なのかをまず説明しなければ、実態に対して適切ではないと、そう思ったのでありまして。
山盛りの信頼と脈々の愛情に、ビジネス感覚とお茶目と真面目と義理堅さを
住田さんと住田さんの野菜について説明しろと言われたら、
基盤にあるのは山盛りの信頼と脈々の愛情にビジネスの感覚、そのうえにお茶目と真面目と義理堅さをトッピングしたような畑と人とお野菜です。
なんて答える。
なんのこっちゃと思うけど、多分何度チャンスをもらったってこんな表現しかしない。
かれこれ数年もお世話になっていて、こんな表現しかないのかと思うけど、お野菜で文章力やワーディングの能力は上がらないのかもしれないから、こればっかりは仕方ない。
山盛りの信頼、「いいよ」の野菜
■朝から朝まで働くスタイルの会社勤め、社長に啖呵きっちゃって辞めて、農業をやると言い出した住田さんに、ご懐妊中の身で「いいよ」と答えた奥様から住田さんへの信頼
■「しんどかったら、(故郷である広島に)いつでも帰ってきてええで」と住田さんに伝えた、住田さんのお父さんから住田さんへ向かう信頼
■就農1年目、知人友人に「野菜作るから買ってくれ」という住田さんに、1年分の金額でお野菜の購入を申し込んだ、その20名から住田さんに向かう信頼
どれも当たり前じゃないから、それこそが住田さんの凄みなんだと思っているわけです。
これだけ「いいよ」って言ってもらえる人、途方もない長さの行列ができる人気のお店と同じで、いいよと言われる理由がある。
周囲からの「いいよ」を待つことすらせずに、「うるせーーー!やるっつったらやるんだ!」というのに近い歩み方をしてきた自覚があるもので、きっと住田さん自身が周りに対して「いいよ」って言ってきた人なのかなぁなんて思っちゃう。
つまるところ生き方が丁寧で折り目正しい気がしてならなくて、わたしのなかの「自分にないもの探知機」が大音量で鳴り響く。
「いいよ」は簡単じゃない。
表層にある受容だけじゃなくて、この短い単語の中に、信頼と覚悟がつまってるから。
脈々の愛情、父ちゃんの背中
山盛りの信頼が鋤きこまれた、住田さんの畑。
そこに一人で立ってる住田さんが、「自分も、『いつでも帰ってこい』って言える家を子どもたちに用意したい」って言う。
なんだその、脈々と続く愛情の形は。
素敵を超えてる。
素敵のウルトラ版。
退路があったから安心して気楽に実力を発揮できる人もいれば、輪郭すら見えないくらい退路を絶って、超人的パワーを発揮する人もいる。
だから退路の有無の話なんかどうだってよくて、「それがあってよかった」って思っているものを、我が子に用意したいって思える父ちゃんが、360度、死角なくかっちょいい、ってそう思う。
そうかといって、住田さんが「家族のためになにか我慢して」生きてるわけじゃないし、自分の選んだことで生きてる人に見える。
そんな父ちゃんが、自分の「選んで」「頑張る」につながった要因である「いつでも帰ってこれる場所」を、父ちゃんの掴んだ農業という選択で実現しようとしてるって、なんてピンと背筋のとおった話なのか。
お野菜を切り口にするから、わたしと住田さんの関係性は「育てる人と食べる人」になる。
だけど同じ時代に子どもを育てる親同士って意味では、同志ってことでいい気がしていて、こんなかっこいい父ちゃんがいるなら、その人の仕事と父ちゃんの背中を支持したい。
もしもこの先、住田さんちの坊っちゃんが、小難しめの思春期に足を突っ込むことがあれば、膝を突き合わせて「お前さんちの父ちゃんがいかにすごい仕事してるのか」を、プレゼンさせて欲しいと思うくらい。
親を超えよう超えたいとアレコレ頑張る思春期に、その親の偉大さを説き始めちゃう よそのおばちゃんがいてもいいんじゃないか、だめなのか。
ビジネスの感覚と人柄と
照れてたのかもしれないし、100%それが本音かは、きっとこの先もわたしじゃわからないけれど、「有機JASの認定を取得しようと決めたのは、差別化のため」って住田さんは言う。
「あのJASのシールを貼りたかったんですよねぇ」なんて。
頭のシンプルなわたしは、あまり難しいこと言われるよりも、これくらいのシンプルさが好き。
そうすることで住田さんが野菜で生活をしやすい、売りやすいと判断して、だからその難易度の高い選択した、それで十分だし、それ以上なんかないと、個人的にそう思う。
難易度が高い目標に取り組むときほど、半径5m以内にメリットのある動機が、一番強いに決まってる。
とはいえ、住田さんのお野菜を一番差別化しているのは、栽培方法を書いたシールの印籠的ななにかじゃなくて、本当にツヤツヤおいしい野菜の実力と、まじめでお茶目で義理堅い、住田さんご自身だとも思うけど。
徹底したこだわりで育てた土、毎日の草抜き、そういう「たがやす」ことをしてるのを知っているから、その仕事の積み上げを軽視するわけじゃない。
それでも、住田さんのお野菜のなにを食べてもおいしいのは、その作業のせいだけじゃ、絶対にないもんなぁ。
優しい覚悟のある野菜
「職業選択」や「職務経歴」のことを、「キャリア」と表現するものだから、まるでそれらだけが「キャリア」のように言われるけれど、そもそも選択の連続であるところの人生において、その選択全体を指すのが本来の「キャリア」。
ラテン語だったか何語だったかで「馬車の轍(わだち)」のことを指す「キャリア」は、どこでなにやってもいつも本人のもので、だから死ぬまでずっと終わらない。
住田さんは会社員としての「キャリアを捨てた」んじゃなくて、住田さんのキャリアの中で、より住田さんと周りの人が幸せになれると信じられる選択をしたのね、なんて。
とんでもなく余計な解釈かもしれないけれど、そんなふうに捉えとります。
だから、その「キャリア」の中に、ちょろっと1ファンとして入り込めた幸運が、嬉しくてうれしくて。
一体なんの話をしだしたのだ、というと。
今までがあったから、今の住田さんと住田さんのお野菜がある。
だからわたしは住田さんと住田さんの野菜が、途切れない道のりのあらわれたものとして、深刻なほどに好きであります、というお話。
ちょっとビジネス界でも有名な、ハードコア企業の営業として仕事をしていた住田さんの勘所や丁寧な顧客対応力が、いただくお野菜とその前後のご連絡には強烈に感じられる。
なんせ隙がない。真剣に仕事をしてる人の、背筋の伸びる緊張感がちゃんとある。
だけど優しい野菜は優しいし、パンチの効いたのは力いっぱい殴りかかってきてくれて、だから食べる人に対して、結局いつも優しい。
家族を背負って (『背負う/背負われる』という表現が実態に対してふさわしいかどうかはわからないけど) 農の仕事をするんだと決めてここまで数年やってきた覚悟だって、毎年進化する野菜たちが、ちゃんと教えてくれる。
「オーガニック」とかは、ちょっとわからないんですけど。
「食育」とかも、ちょっと関心ないんですけど。
それでも住田さんのお野菜と住田さんを、心から信頼しておりまして、
自分で自分の場所を定めて自分の足で立ってはたらく人の仕事を、食として自分や家族の身体に取り込むことができるって、こんな価値のあること、なかなか他にないと思うから。