貝殻の呪縛
海辺に行くと、どんなに寒くても雨が降っても、貝殻を拾い集めねば気が済みません。
幾何学的な美しさと、「お前さん、一体なんだってこんな形に」と言いたくなるような、一見して妙な形状のものも含めて、
きっと貝のほうには貝なりの理屈があるんだろうなと思わされる、訳ありげな雰囲気も良いのです。
子どもの頃は、潮干狩りに行っても貝殻を拾うので、食える貝を拾え、と父親に怒鳴られたことを覚えています(子どもの自主的な戦力化を期待するなんて大人の身勝手だと、わたしは今でもそう思うけれど)。
なぜ貝殻が好きか。
きっかけは、「耳に当てるとサザナミの音がする」という、うんと小さいときに聞いたロマンチックなお話。
貝殻というのは、海にありながらその内部に海そのものを抱いているのか!なんてすごいんだ!
と感激したのが第一段階。
とはいうものの、いざ耳に当てるようなサイズの貝殻を探しても手に入らず、しじみの味噌汁のお椀に残った貝殻をつまみ出して耳に当てては「これもきこえない」なんて言っていたのが第二段階め。
サザナミの音のする貝殻が手に入らぬまま、心にこびりついた憧れが執着へと変貌を遂げる最終段階。
実らぬ憧れ、80年代お砂場編
大人になってみるときっとあれは、大阪湾か和歌山か、なにしろ住まいのあった大阪近郊の海の砂だったのだろうなと、そんなふうに思い出すのが「あんず公園」のお砂。
幼稚園の頃、幼馴染みの仲良し3人で常連をしていたその公園、お砂場の砂をよーく見ると、時折子どもの小指の爪よりももっとうんと小さな白い貝殻が見つかって。
掘り進めばぎらぎら光るトコブシの貝殻が発掘できて、トコブシはヒカリモノなだけに仁義なき強奪戦が巻き起こるし、小さな白いのは、自分に割り当てられていた引き出しにそーっとしまったりする宝物だったのです。
相変わらず綺麗な貝殻は手に入らないので、味噌汁のアサリの貝殻を学習机に飾っていた子ども時代。
「美しすぎる」二枚貝
綺麗で大きな貝殻への渇望を胸に秘め( ていることすら気づかず )大人になって、ほんの最近出会った緋扇(ヒオウギ)貝はすごかった。
一時期、見目の麗しい人をメディアで取り上げるにあたって、「美しすぎる●●」なる表現が流行ったとき、
美味しいものを食べて「やべぇ」と表現するのに近い、楽しいけどちょっぴり軽率な日本語だなぁと思っていたものです。
それはつまり「本来美しくあるべきではない、あるいは美しさを期待されるべきでないものが、その基準に比して大きく逸脱する程に美しい」ということなのか、「美しい」が「過ぎる」とは一体どの基準で過不足を指すのか、なんて。
でも分かった、「美しすぎる」って、そうなのね、ああこういうことね。
わたしは貝殻というものを
- 味噌汁のシジミでありアサリであり、海水浴に出かけたときに海の家で法外な価格設定をされた壷焼きサザエの貝殻である
- 絵本や物語で美しく描写される色とりどりの貝殻は絵本だからで、それはつまりねずみだったかリスだったか、なにしろげっ歯類の兄弟が巨大なパンケーキを焼いたり、キツネが手袋買ったりする世界のものである
としてきたのに、
色とりどり。緋扇貝、すっごい、色とりどり。
経験の積み上げから自分の想定していた範囲を大きく凌駕して美しい、「美しすぎる」貝。
貝殻の功罪と旨みのグーパン
緋扇貝の購買に向けた難しさはまさに、「美しすぎる貝殻」、ここにあって、写真を見て「キレイ!!」と思わせてはくれても、「で、美味しいの?」が分からない。なにしろ未体験で想像もつかない。
貝殻が目立ちすぎて、食材に本来向けられる「おいしそう」「食べたい」に到達せずに見る者の感想が完了してしまう。けれどもポケマルを開くとき、わたしを支配するのは食欲であって鑑賞向け資材へのパッションではない。
更にはどういうわけか、色合いの綺麗な海産物に対して自然とかかる購買ブレーキ。
見慣れていないからでしょうけれども。貝殻に憧れる子どもだったわたしは、食べられない貝殻よりも「で、美味しいの?」と、胃袋で思考し嗜好する即物的な大人になってしまった。
で、美味しかった。
緋扇貝は、胸ぐらを掴んでくる強さがあって、おいしかった。
Twitterで「分かりやすい」と複数の方からお褒めに預かったのがこちら。
例えば、不朽の名品カルビーポテトチップス、仮にあれに緋扇貝味が出ても不思議には思わない。
それくらい、ガツンと尖って人を虜にさせる旨み。一口で食べるのはちょっと顎関節への負担が大きいかもしれないなぁと思うくらいに、むっちむちに大きな貝柱。
そして緋扇貝の味を煮詰めたようなグーパンチの根源:カイヒモ部分。
なによりも、美味しい貝は加熱するだけで美味しいから、鍋に入れて酒蒸しにしただけで立派に一品出来上がるんだからありがたく、
ちょっとお行儀よくないんだけど、
ヒモのとこをビビッと引っ張って、ヒモはヒモで、肝は肝で味わい分けても、
全部一緒にかぶりついて口腔内マリアージュしても、どうやっても美味しい。
ホタテも大好きだけど、「似てる」というにはあまりにも別物で、ホタテと緋扇貝、それぞれにべつべつに美味しい。
それに、貝殻を食べるわけじゃなくたって、貝殻ごと並べればそれだけで食卓がパッと華やかになる、揺るぎのないあの鮮やかな色彩。
他のおかずが、どんなにオカンbrownでも。
憧れは、貝殻から屋形島へ
食欲は常に最大出力でありながら、その内容には保守的なほうです。
だからこそ、未知なるものへの冒険には、その生産者さんへの信頼や、尊敬や興味を連れて行きたい。
わたしが緋扇貝の味にたどり着けたのも、そんな感覚を生産者さんがくれたからで、
ハデ色海産物に向けた購買ブレーキを外してくれたのは、緋扇貝の生産者さんとして出会った、後藤さんのお人柄。
大分県の人口14人の離島 屋形島で緋扇貝を育て、ゲストハウスを営むのが後藤さん。
後藤さんのSNSやポケマルコミュニティでの消費者対応からは、試行錯誤とか美意識が、やさしい哲学と一緒に伝わるし、
スーパーマンでも聖人君子でもなくて、お会いしたこともないのだけど、「等身大なかんじ」が心地よいのです。
この人が育てるのなら、その美味しさを伝えようとするのなら、と受け取ってみる。
そしてグーパンチを喰らった、という幸せな顛末が緋扇貝との邂逅。
わたしと後藤さんと同世代のようなので、わたしがお砂場で仁義なき貝殻戦争をしていたとき、後藤さんはこんなに美しい屋形島の海で遊んでたのか。
同梱いただくパンフレットを見ると、毎度その美しい写真に見入っちゃう。
貝殻どころじゃない、もう憧れは屋形島。
それに、「貝殻からの波の音」への情熱は既に消滅したのです。波の音じゃないと知ってしまったせい。
日常に溢れるノイズの中で、耳にかざした貝殻によって「遮断されなかったものだけ」を聴覚神経が拾ったのが、「まるで波の音のよう」なだけ、
まぁでも、つまるところはあれもこれもノイズなのだと、貝殻を手にする前に知ってしまったからのこと。
なぁんだ、波の音じゃないのか。
ないよな、そりゃな。
先に種明かしをされた手品のみたいなもので、熱意がすっかり成仏したのであって、これはこれで悪くない。
けれど、引き出しの持ち手に赤い彩色のしてある木製の学習机に、アサリの殻じゃなくてこの貝殻を飾ってやりたかったような、そうでもなかったような、そんな出来もしないことよりも、今はもうすっかり、屋形島に緋扇貝を食べに行きたいなぁ。
行きたいったら行きたい。